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塾頭の生い立ち~Part2

2020/06/24
Victoryブログ

こんにちは、塾頭山崎です。

今回は小2から横浜に住んだ話です。

横浜市戸塚区俣野町1403番地

8号棟の11階に引っ越しました。

確か、小2の時はドリームハイツは

11号棟くらいまでしか建っていなくて

小4の時くらいに23号棟くらいまで

拡張されたように記憶しています。

これでドリームハイツが

横浜ドリームランドの周囲

5分の2くらい囲む形になりました。

14階建てや11階建て、8階建てなど

混在していたと思います。

小学校は全学年4クラスあり、

1クラス40人以上いたでしょう。

山の上に建てられたドリームハイツ。

少し歩けば、田んぼや林がありました。

小学生の時は田んぼに行けば、

シマヘビやウシガエルを見つけました。

原っぱには、カマキリ、トノサマバッタ、など

様々な生き物を見ることができました。

当時は、校庭は自由に使え、野球をしたり、

ドッジボール、缶蹴りなどして遊びました。

サッカーをやる人はほとんどいなかったです。

小4の時に、父の転勤で中東のパリと呼ばれていた

レバノンに行きました。

当時、レバノンは中東戦争の真っただ中でした。

街中を戦車が走っていました。

爆弾も落ち、住んでいるアパートが揺れました。

子どもだったので、全然怖いという想いもなく、

爆弾が落ちると「どこら辺に落ちたかな」と

窓から顔を出して煙が立っているところを見つけようとしたものです。

そんな危険な状況だったので、

首都ベイルートはどんどん破壊されていき、

「中東のパリ」と言われた面影はなくなっていきました。

学校もバスで行かなければならないほど遠かったので、

「休校」になってばかりでした。

だから、あまり学校での記憶がありません。

ただ、その時に既に4年という年月を過ごしていた

同級生はかなり英語が話せていました。

私は、米国滞在があったのも拘らず、

全く話せませんでした。

というより、全て忘れてしまっていたのです。

ここに面白いエピソードを紹介します。

父方の母(祖母)ですが、

5歳で帰国した私に日本語で話しかけた祖母に

私は理解できなかったようで、祖母は英語で

話したようです。

その翌年、祖母と会った時、祖母は英語で

私に話しかけたのに、私はすっかり英語を

忘れてしまっていて、全然理解できなかったようです。

この話はよく祖母から聞かされましたが、

自分は全く覚えていません。

多少の誇張はあったにせよ、それくらい

幼少期は「覚えるのも早いが、忘れるのも早い」

という教訓のようなものですね。

話も元に戻しますと、結局、レバノンでの滞在期間は

6ヶ月間で帰国することになったのです。

その時の同級生がみんなどうしているのか、

全く分かりませんが、会ってみたい気がしますね。

小5と小6は少年野球チームに入り、野球漬けになりました。

戸塚区では結構強いチームでした。

私はそんなにうまくなかったので、Aチーム(1軍)とBチーム(2軍)を

行ったり来たりしていました。

6年生になると、Bチームのキャプテンを命じられました。

Bチームなので、戦績など全然覚えていませんが、

厳しいながらも楽しい時間でした。

懐かしいですね…

今日はこの辺で。

最後までお読みいただきありがとうございました。

感謝。