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塾頭の生い立ち~留学後~

2020/09/07
Victoryブログ

こんにちは。

塾頭山崎です。

しばらく間が開いてしまいましたが

「塾頭の生い立ち」シリーズの続きを

再開させて頂きます。

大学3年生の8月に帰国し、

9月から大学に通い始めました。

私の家族は私が米国に渡った6か月後に

父の4度目の海外赴任で同じ米国に

来ていました。

場所は東海岸のボストンです。

だから、私が帰国した時は

多摩センターの実家には誰もいなくて

私の「一人暮らし」が始まりました。

母が中学生を3人ほど教えていたようで

その子たちの勉強を見ることになりました。

中2の英語でした。

但し、今と違い「気が短かった」ので

できないと「どうしてできないの?」

などと叱っていました。(;^_^A

サークル活動に復帰したら、

みんな私の上達度の驚いていました。

とは言っても、サークルの代表として

試合に出られるほどではなく、

4年生の夏合宿での部内ダブルストーナメントで

当時、関東No.1ペアに決勝戦で負けて準優勝したのが

精一杯でした。

以前も書きましたが、練習会場がみんな家から

めちゃくちゃ遠かった(片道2時間以上かかった)

こともあり、あまり参加せず、その代わりに

日本で行われるプロテニスの公式試合の運営に

携わる仕事をしました。

当時、日本は経済大国への道を突き進み、

アメリカに次ぐ世界第2にの経済大国でした。

そのためか、企業がスポンサーになり

たくさんの国際大会を開催していました。

我がWTCは、中央大学のテニスサークル「ポーム」

と代々この仕事を請け負っており、

テニスの試合のボールボーイ、ラインズマン(線審)、

タオルガールの仕事をしていました。

私は、その仕事を統括する「チーフ」をしました。

当時、サントリージャパンという非常に大きな大会が

あり、ボールボーイやラインズマンがWTCとポームだけでは

賄えず、東京にあるテニスサークルに声をかけて、

ナン百人という学生をまとめなければなりませんでした。

ここで、「短気」な私が顔を出し、

思い通りに動かない学生たちに怒ってばかりいました。

こんな調子で一年を過ごし、4年生の同期が私に

「そんなに怒ってばかりいたら、リーダーになれないよ。

誰もついてこなくなるよ」と言ってきました。

この忠告にショックを受け、ものすごく落ち込みました。

その時、留学したことにより、「留年」が決まっていた私は、

中大ポームのチーフから「ポームのチーフが新3年生なので

もう1年やってほしい」と言われ、もう1年「チーフ」をやることに。

この1年は、「何があっても怒るまい」と心に決めて、

色々なことが起きても笑っていようと努力しました。

10月にセイコースーパーテニスという大会があり、

それが事実上の最後の大会だったのですが、

下級生から「最高の1年でした。ものすごく楽しかったです」

と異口同音に言ってもらえ、泣けました。

この経験から、「短気は損気」と言えるようになりました。

今日はここまでです。

最後までお読みいただき誠にありがとうございました。