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塾頭の生い立ち~Part3

2020/06/29
Victoryブログ

こんにちは!

塾頭山崎です。

いよいよ中学生です。

家から徒歩で30分くらいのところに

横浜市立大正中学校という学校がありました。

私が入学した当時は近隣5つの小学校から

児童が集まってきていました。

なので、私が中1の時のクラス数は、

どれくらいあったと思いますか?

8クラス?

10クラス?

15クラス?

いえいえ、

実は、

18クラスありました!

18クラスですよ

当時、2年生は17クラス。

3年生は14クラスありました。

その時点では、日本第2位のマンモス校で

教室が足りず、校庭にプレハブを建てていました。

確か、中1の時はプレハブだったと思います。

当時の日本第1位は大阪の学校だったそうですが、

ある時、NHKが取材に来て、全員校庭に出さされました。

当時、1クラス40人以上いたと思うので、

2千人が校庭に出たことになります。

ぎゅうぎゅう詰めの満員電車とまではいきませんでしたが、

結構、人と人の間は体操がやっとできるくらい

だったように記憶しています。

私は1年8組でした。

担任の先生はK大学を卒業したばかりの

F先生でした。

部活は軟式テニス部。

野球部にしませんでした。

なぜかというと、

両親が軟式テニスをやっていたからです。

それまで一度もやったことはありませんでした。

顧問の先生はとても厳しい先生でした。

軟式テニス部は校庭の端の方に2面作り、

男女が1面ずつ使っていました。

陸上部とバレー部も同じ日でした。

野球部とサッカー部の日と交合に

校庭を使っていたのです。

学校の成績は

中1の時、「5」が4つ、

中2の時、「5」が2つに減っていました。

なぜかというと、

中2の9月頃には

中3の4月にエジプトに行くということが

分かり、ショックでやる気がなくなっていました。

どうして「ショック」だったかというと、

中1の部活では、ほとんどボールを打たせてもらえません。

素振りと体力トレーニングとボール拾いと声出しばかりです。

中2で、やっとボールが打てるようになります。

だんだん上手くなって部活が楽しく感じるようになってきて、

3年生が引退した後は、中2も試合に出られるようになった時に

転勤の知らせがあったのです。

まさに「これから楽しい時」という時でした。

結局、部活の戦績はというと

個人戦区大会ベスト8か16くらいでした。

団体戦は覚えていません…

この時代の中学校は、

「校内暴力」の時代です。

武田鉄矢の『3年B組金八先生』が

オンエアされていた時代です。

カバンをペッちゃんこにして、

髪型をパーマかけて、リーゼントして、

学ランの中には「上り龍」が縫い込まれていて、

「ツッパリ」が校内を跋扈していました。

教室や廊下のガラスが割られることも。

そんな怖い時代でした。

中2の3月下旬に

エジプトに向け、出発しました。

1980年。

運命の年です。

今日はこの辺で。

また、会いましょう!

最後までお読みいただきありがとうございました。

感謝。