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塾頭の生い立ち~エジプト時代

2020/06/30
Victoryブログ

こんにちは。

塾頭山崎です。

いよいよエジプトです。

エジプトは当時貧富の差が激しい国でした。

道端で乞食がたくさん座っていて、

我々日本人を見ると「恵んでくれ」と言ってきます。

街中をロバが荷台を引いて歩いています。

電気が通っていない家がたくさんあります。

交通渋滞もひどく、クラクションの音が

ずっと鳴り響いていました。

住んでいた場所は首都カイロの中にある

ザマレックという地区で、日本人が住んでしました。

この地区からインターナショナルスクールがあるギザ地区までは

スクールバスで40分くらいかかります。

当時、インターナショナルスクールには、日本人は5人くらいしか

いませんでした。

日本人学校もありました。

私の妹2人は日本人学校に行きました。

当時、中3生は一人もおらず、

通常、中3生は受験のため、夏休みくらいに帰国していました。

父の任期が4年以上と言われていたため、

どうせ高校になる時にはインターナショナルスクールに行かなければならない

のなら、早いうちから入れてしまえ、ということでした。

もし、日本人学校に通っていたら、

栄えある「卒業生第1号」だったのですが…

4月に入り、学校へ行きました。

よくアメリカ映画に出てくる

黄色いスクールバスに乗って。

右も左もわからずいたところに

既に4年通っていた高校生の先輩女子が

私の通訳をしてくれました。

そして、「ESL」というクラスに

入れられました。

「ESL」とは「英語を第二外国語とする生徒向け」

のクラスです。

そこには、当時ユーゴスラビア人、韓国人などいました。

みんな英語が片言しかできませんでした。

そんな中でも宿題ががっつり出ました。

知らない単語ばかりでしたので、

辞書を引き引きやっていました。

一語一句辞書を引いていたので、

宿題が終わるのが大体夜中でした。

エジプトでは使用言語は「アラビア語」です。

借りていたアパートの部屋にテレビはありましたが、

白黒テレビであり、何を言っているか分かる訳ないので

テレビのない生活でした。

当然、お風呂もありません。

全てシャワーです。

学校から帰ってくるのが16時頃でした。

そこから宿題に取り掛かり、

夕食とシャワーの時間をのぞいて

ずっと勉強(というより辞書を引く)時間でした。

向こうはイスラム教なので、日曜日にあたる日が

金曜日です。なので、金曜日と土曜日がお休みでした。

毎日7時限授業。朝7時には家を出ます。寝るのは夜中。

こんな生活が始まったのです。

6月には卒業式のようなセレモニーがありました。

インターナショナルスクールでは、

中学校は2年、

高校は4年でした。

9月始まりの6月終わりです。

通い始めて、2ヶ月ちょっとで夏休みに突入しました。

夏休みは確かギリシャに旅行しました。

そこで一人旅をしていた男の人に会い、

一緒に行動しました。

今でもこの方とは両親はお付き合いをさせて頂いています。

9月から高校1年生になりましたが、

相変わらず英語は話せないし、聞き取れない日々を過ごしていました。

但し、先生が黒板に書くことは理解できました。

なぜなら、日本の中学校で習った文法だったからです。

数学のクラスは文字通り「楽勝」でした。

向こうの高校レベルでも日本の中学レベルでした。

当時、日本は経済大国への道を驀進しており、

「ジャパンアズナンバーワン」という本が

ベストセラーになっていました。

なぜだか本当に分かりませんが、

「日本人として恥ずかしい成績は取れない」

という強烈な強迫観念に囚われていました。

話す英語も「完璧」にしなければならない、

などと思っていたので、「話せる」訳がありません。

頭の中を文法がグルグル回り、

自分の頭の中で日本語を英語に変換して

順番に並び替えて、などとやっていたら

会話になりません。

相変わらず、宿題に追われ寝るのは毎日夜中です。

いつだったか忘れてしまいましたが、

ある時、プッツンと切れてしまいました。

父親に向かって怒鳴りました。

「なんでこんなに苦労しなければならないんだ!」

「親父のせいだ!」

父は黙っていました。

後々、この場面を父と飲んだ時に言われました。

「あの時は返す言葉が見つからなかった」と。

私は「そんなこと言ったっけ」ととぼけましたが、

もちろんしっかりと覚えていました。

(この辺りは「蛇年」の執念深さなのかも…)

それでも金土は日本人学校の生徒たちと遊んでしました。

みんな年下ばかりでした。

インターナショナルスクールの先輩たちは女性だったので

学校では話をしましたが、家に帰ってからは

ほとんど交流はありませんでした。

一人だけ一つ上の男性の先輩がいましたが、

この先輩は現地のアメリカ人たちに溶け込んでいました。

「縁」とは不思議なもので、ここで知り合った先輩や後輩の何人かが

同じ会社にいたのです。

本当に世の中、

「狭い」です。

ここで知り合い、仲良くさせて頂いた人たちとは

今でも交流があります。

ありがたいです。

今日はこの辺で。

最後までお読みいただきありがとうございました。

感謝。